サンネット スタッフのあれこれ

2013年12月28日

福って何だろう。

Filed under: エッセイ — SANNETSTAFF @ 10:19 AM

裏側から見たアスパム。

お正月には、福袋、福引きなど、何かと「福」という言葉を聞くと思い、辞書を引いてみました。

【福】1、さいわい、しあわせ。幸運。2、裕福なこと。さま。

…ということでした。

 

昔、人々が求めた福、というのはどちらかというと、2の方だったようです。お金が欲しい、とか商売繁盛したい、とか。

お正月によく出てくる「七福神」が乗っている「宝船」などが、その象徴な気がします。

 

今でもお金は必要ですし、商売する人はお客さんが来ないといけないので、皆「福」を求めるのだと思います。

ただ、今は「裕福」であることの他に、「さいわい」「しあわせ」を考えることも増えて来ているようです。

お金があるに越した事はないけれど、お金があるだけでしあわせになれるのか。そんなことを考える風潮が広がって来て、結構経つように感じます。

なら「しあわせ」という意味の「福」というものを手にするには、どうすればいいのだろう、と考えます。

 

明治時代に「福の神」が仙台に実在したそうです。

「仙台四郎」と呼ばれたその人。

子供の頃に事故に遭った影響で知的障害を持ち、言葉もあまり話せなかったそうですが、いつもにこにことして裏表ない性格で、沢山の人に愛されたそうです。

彼は街を歩いている時、店の呼びかけには一切応じず、自分で店を選んで入ったのだとか。

そして、彼が入った店は、必ず商売繁盛したといいます。そんな訳で福の神、と言われるようになり、彼の人形や写真を店に飾る風習が広がったとの事。

店を選んで入った、というのは、彼は人を見る目、というのがあった人だったらしく、その店が純粋に自分を歓迎してくれているのかどうか、ずるい気持ちで自分を呼び込もうとしていないか、というのを察知していたのではないか、と言われています。

 

福の神は「福」を得る要素を持っている人の所にしか立ち寄らない。そんな事を言っている人がいました。その要素は色々あると思いますが…。ずるい人や意地悪な人の所には、まず立ち寄らない。福を得る要素を持っている人に、最後の後押しをして、福を与える。

仙台四郎はそんなタイプの福の神で、迎える店側もそんな彼の性質を汲んだのか、彼を福の神とすることで、店を良くする努力をしたといいます。

 

また別の話になりますが、絵本で読んだ昔話に、貧乏神に憑かれた貧しい家のお話がありました。

貧乏神は、福の神に追い出される予定だったのですが、やって来た福の神の、貧乏神に対するひどい態度に怒った家の人間達が「貧乏なままでいいから、出て行ってくれ」と福の神に言い放ちます。

その後、彼らは貧乏なままでしたが、貧乏神と一緒に楽しく暮らした、というお話でした。

 

裕福、というのは財的に満たされていること、しあわせ、というのはそれぞれの心の持ちようで変わる、そんな風に思います。

仙台四郎を迎えた店の人達は、店を良くしよう、という気持ちを持っていました。貧乏神に味方して、福の神を追い出した家族は、相手に対する筋を通したのだと思います。

どちらも苦労はしますが、そんな心を持てる事は、しあわせなこと、と感じます。そんなしあわせが「福」だったのかもしれません。

 

辞書を引いていて気付いたのですが、「福」って「福祉」の福ですね。

「福祉」の意味は「幸福。特に、社会の構成員に等しくもたらされるべき幸福」、「幸福」は「不自由や不満もなく、心が満ち足りていること」だそうです。

社会の人々の心を満たす。そう考えると「福祉」というのは、とても難しいことのような気がしてきます。

心を満たすしあわせは、人それぞれ。そんな気がするのです。

 

(kosuzume)

2013年12月19日

考え方が違う話。

Filed under: エッセイ — SANNETSTAFF @ 1:37 PM

あおもり灯りと紙のページェント会場にて撮影。続いてます。

昔、テレビでお寺の人が言っていたのですが、日本の神様と仏教の仏様は、仲がいいそうです。

日本で古くから信じられてきた神様と、外から入って来た仏教の仏様が、同じものとして見られて親しまれたりなど、うまく馴染んでいたようです。

日本に来てあまり馴染めなかったのは、一神教…一つの神様を絶対とする宗教の神様だそうです。仏教も日本の神様の考え方も、沢山の神様から考えが成り立っているので、そもそも考え方が違う辺りで相容れなかったのでしょうか。

 

考え方が違う、というのは難しい事だと思います。

同じ事について考えていても、人によって考え方は違ったりします。時にはそれで対立したり。

私が昔聞いた言葉に「正義の反対は悪じゃなくて、また別の正義」というのがあります。

こちらが相手の考えを悪い考えだ、と思っても、相手にとっては、それは悪い考えではなく、正しい真実かもしれない…そんな意味の言葉だと私は思いました。

自分にとっての正しい事と、相手にとっての正しい事が、相反する事だったら、難しいです。どちらにも、譲れない部分が出来てしまう。

だから、なかなか相容れない。

それを少しでも和らげるには、どうすればいいのだろう。そんな事を考えます。

私が勝手に思うことですが、この場合は、どちらも同じ事について、頑張って考えている。それを忘れないことに尽きるのかもしれません。

真面目に考えていればいるほど、譲れない部分も出てきて、かたくなになってしまう事もあります。相手も真面目に考えているから、ぶつかる事もあるのかもしれません。

相手も、この事柄について、考えてくれているんだ。

対立してとげとげしたりすると、なかなかそうは考えられないし、私もそんな思考に至らない事も多いですが、そう考えられれば、また違うのかもしれないな、と考える訳です。

 

(kosuzume)

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