なんとなくサンネット日記

2020年2月3日

津久井やまゆり園事件の公判が始まる

Filed under: つぶやき — 投稿者 @ 5:58 PM

りんご園を見守る

(福祉における契約という関係を考える№1)

■これはヘイトクライムか
年明けの1月8日、相模原障害者殺傷事件の公判が始まった。2016年7月の事件から3年半もたった。植松被告が「確信」をもって行った犯罪とはいったい何だったのか、何がこのような事件を引き起こしたのか、事件を超えるためにはどのような営みを創るべきか。公判を通じてこのような問いかけや議論が行われるよう願うが、植松被告の証言が伝えられるほどに、彼の奇行として扱われてしまいそうだ。マスコミの取り上げ方もコメントの少ないベタ報道が多く、風化を感じる。

一方で、この事件を「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)と表現する向きもある。植松個人ではない、その背景に障害者差別、少数者に対するヘイトがあるという視点だ。そういう面もあるだろうと思いつつも、それでは、重い障害者を死ぬべき存在=「心失者」と呼んだ植松被告に、「犯罪者」「差別者」と言い返しているだけではないか。単純な断罪になってしまうのではないか。

仮にヘイトクライムであるなら、彼のように衆議院議長に予告したり、事件後の速やかな警察出頭を行うものだろうか。植松被告に差別意識は確かにある。しかしヘイトクライムならば自分が多数派であることを誇示し、多数派の中に紛れ込み匿名化するはずだ。私はそう考える。

表立っては言われないけれど、この世の奥にある隠されている本音を、一人引き受けて、現実化するために実行したという、使命感のような「確信」が植松被告にある。その「確信」が出頭させた、と思う。仲間が集合して確認するヘイトの「確信」と、彼の場合は違うと思う。(朝日新聞の取材班は事件を『妄信』という言葉で表現した。信じやすいという意味の妄信ではなく、妄想と確信が混ぜ合わさったという意味である。『妄信 相模原障害者殺傷事件』朝日新聞出版、2017年)

植松被告の「確信」にはどのような背景があり、どのような経過で、いつ確立したのか。そこはつかみ難い。しかし彼自身が施設職員であったのだから、福祉施設のあり方、福祉制度、職員という問題を背景において、考えるのは当然だ。なぜ福祉は「確信」を防げなかったのか、あるいはなぜ職場は「確信」を育ててしまったのかという意味において。

■植松はやまゆり園のある地域で育った
福祉の仕事をしている私は、やまゆり園事件から、いろいろな課題が突きつけられた。これからも向きあっていかなければならないと思っている。事件が起きた直後は落ちつかない日々が続いた。上京したおりに押し出されるようにやまゆり園に向かい、植松被告の家の周辺も歩いた。

事件報道以降、やまゆり園周辺は「山あいの土地」とか「ひなびたところ」といわれた。市街地から離れていて、スーパーやコンビニなどあまり目にしないから、そのような言い方が間違いというわけではないが、東京圏に隣接している地域だから、単純な田舎扱いには違和感がある。八王子まで車でわずか30分ほどの距離である。

ここは相模川の浸食でできた河川段丘の土地であり、同様な地形は多摩地区や秩父方面にもある、武蔵台地が山地と接するところの風景だ。東京の都市部で生活している人間が、たまの休みには、緑多いところで楽しみたいと思って、向かえば、出迎えてくれる風景である。私にも馴染み深い。

丘陵の腹に沿った道路は、右に左に曲がりくねり、山梨県に通じている。小高い方の片側には、石積みがあり、その上に家々がぽつぽつある。低い方の側の一段低いところには畑があり、道に並行した畑の脇に家屋が点々と続く。市街地にはなくなった、人と畑が寄りそう暮らしがある。人工湖に近づくと水かさは増し、水面は青々として見えるが、遠ざかれば川面はずっと下がり、竹やぶや雑木林の木々に隠される。

やまゆり園はバス道から低い側にある。百数十人が入所していた施設は道路から何段か下がりながら、奥に向かい、扇状に広がっているので、道からは玄関の管理棟が見えるだけだった。(事件後、2018年5月、改築工事が始まり、玄関の前にはフェンスが立った。居住棟は取り壊され、新たな棟が建つという)

植松被告の家は、やまゆり園から歩いて10分ほどのところにある。やまゆり園から彼の家まで、「キッチンたかはし」という小さな食堂が一軒あるくらいで、目立つ店はない。バス道からそれ、膝くらいの高さの石積みの道を、ゆっくりと降りる。畑と竹やぶに挟まれた幅の狭い場所が見え、それ以上降りると川に落ち込んでしまうようなところの間に、10数軒の個人宅が固まっている。東京的な密集がここだけにある。彼が1歳の頃、東京都の教員である父がこの家を購入して、引っ越してきたそうだ。

この土地を実際に歩いてみると、事件について疑問が浮かんでくる。
30年近く前、植松の両親はなぜこの土地、この家を選んだのだろう。その疑問が一つ。勤務している東京から離れ、畑と共存している土地柄に背を向けるような東京的戸建てで暮らすのは、親たちにとってはいいかもしれない。大人なら部屋の中の自分の世界だけで暮らしていける。しかし子どもはそうはいかない。友だち、近所の人、学校やお店に見守られて育たなければならない。両親は彼をどのように育てようとしたのか、そして実際、植松少年はどのように遊び、育ったのか。

ここの土地は川に向かった階段状の斜面である。道路に並行した上下の段に、家と畑が点在する。生活空間は横に広がらず、車道に沿って直線的に伸びていく。主だったものが直線状に並んでいて、迂回は難しい。かつての植松少年が小学校・中学校に通うためには、やまゆり園の前を通らなければならなかった。彼はやまゆり園職員になるずっと前から、日々やまゆり園を眺めて大きくなった。

当時は学校のイベントにやまゆり園利用者も参加することがあったようだ。園の外を散歩する利用者・職員を目にすることもあったろう。土地の人がやまゆり園の職員になることも多いであろうから、この地域では大きな規模のやまゆり園がつくる人間関係がゆったりと広がっていたはずだ。彼は大学卒業後職員になったのだから、なおさら、地域とのつながりは広がったに違いない。

施設職員が施設入所者を殺傷しただけでなく、地域住民が地域の施設入所者を殺傷した。このようなことがなぜ可能になったのか、これが二つ目の疑問である。自分殺しのようだから。

植松被告が地域の中でどのように育ったか、報道はほとんど伝えていない。しかし、歩いてみると地理的な人間関係の濃さが見えてくる。その逆に、彼自身の行動や発言は人間関係の薄さを感じさせてきた。濃淡がミックスしている。とにもかくにも、このような土地で赤子の頃から育った彼が、地域の人間関係の真っただ中で、ヘイトクライムに走ったとは考えにくい。建設されて50年たったやまゆり園である。重度の障害者が収容されている閉鎖的な施設といえども地域の人間関係の中にしっかり根を下ろしているこの地に、対立を扇動しなければならない政治性を見出すことはできない。ヘイトクライムとは別の要素が彼を突き動かしたのだろうと思う。

■施設におかしさを感じた
月刊『創』編集長の篠田博之氏は、植松被告と面会を続けながら、この事件を考えている一人である。
植松被告は一時面会が禁止され、再び許可されるようになった2017年10月から、篠田氏は面会した。植松被告に、障害者施設で働きながらどうして障害者を殺すという考えに取りつかれたのか、どういう体験が彼を追い込んだのかと質問し、応答した植松被告の言葉を、篠田氏は次のように伝えた。

Q 障害者施設の職員の仕事は大変だと思うのだけど(やまゆり園に就職するとき)それは理解していたわけ?
植松:大変と捉えるかどうかは人によって違うと思いますが、私はそう思ったことはありません。むしろ楽な仕事だと思っています。(…)
Q じゃ君は仕事自体に疑問を感じたというのではないわけね。
植松:はい、そういうことは全くありません。ただ彼らを見ているうちに、生きている意味があるのかと思うようになったのです。それは現実を見ていればわかることだと思います
(『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』、創出版、2018年、PP45-46、太字根本)

植松被告は、2012年から2016年までの3年余、やまゆり園で働いたのであるが、はっきりと意識できない部分で心の変化が生まれたのだろう。入所している彼等の「生」とどのようにかかわっていいのかわからなくなる。植松被告の側にもっと引き寄せれば、「かかわる意味」がわからなくなった、ということだ。そのことについてふれる彼の手紙文が紹介されている。

(注:亡くなった利用者仲間がいるのに「おやつは?」と言っている利用者に疑問を感じるようになった植松被告は)そんな想いの最中、やまゆり園で勤務しているときに、ニュースでISISの活動と、トランプ大統領候補の演説が放送されていました。(注: 2016年のことであるが、インターネットで見たISISの殺人の動画を連想しつつ)トランプ大統領は事実を勇敢に話しており、これからは真実を伝える時代が来ると直感し致しました。漠然と時代の変化を感じる中で職員と相談している時に、深い考えもなく「この人たちを殺したらいいんじゃないですかね?」と声にしました。何気なく出た言葉でしたが、心失者の実態を考えれば彼らを肯定することはできませんでしたし、考えを深める程、全ての不幸の源と分かりました…。(『開けられたパンドラの箱』P49、太字根本)

この彼の文章から、「真実」とは隠されているものであって勇気をもって「真実」を語らねばならない、という彼の想念が読み取れる。「真実」を伝えるためにはISのように殺人も肯定されるという短絡もあったのだろう。障害者にかかわる意味はわからないが、どうすればいいかが「分かった」のである。
彼は、施設での現実に対処しても、現実の意味を深く理解することはできなかったのだろう。現実にそれなりに対応できるし、悩むようなこともなかったが、しかし彼は不可解さをずっと感じていた。その漠然とした疑問を、短絡的な直感によって表面化したとき、エゴイスティックで、グロテスクな形になった。このように私は読み取る。

彼がかかえていた「不可解さ」とは、重度の障害者と彼=職員の関係、「重度の障害者と職員」と「社会」の関係があやふやなところから生まれる不全感だったのではないか。
植松被告はその不全を埋めることができず、彼流のゆがんだ考え方に至ってしまう。「植松=隠れた真実(を知る人)」として全能感を身にまとい、欺瞞や不幸に満ちたこの「世界」を安定させることをめざす。その結果、重度障害者を排除することに…。

障害者総合支援法では、「重度の障害者」と「事業所」は対等で自由な人間であり、自由に契約を結んでいるという「観念」がある。

支援法のこのそらぞらしい観念は、植松被告が施設現状を理解するための助けにはならなかった。助けにならないどころか、逆に、不自由な人間関係を美辞麗句で糊塗しているには、何か深いわけがあるに違いないと、思考を横滑りさせるスターターピストルになったのではないか。植松被告が大島衆議院議長にあてた手紙(2016年2月)にはこのようにある。

「障害者は、人間としてではなく動物として生活を過ごしております」…「保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気のない瞳」…「重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました」(2016/7/27毎日新聞報道)

植松被告には、思考を練り上げようとすると思考がどこかにスピンしてしまう「障害」か「病気」があるのかもしれない。それにしても、障害者総合支援法の世界観は、彼を納得させることができなかったのだ。

このように考えると、もしかすると、かつての措置制度であれば彼は納得したかもしれない。措置制度は、「重度の障害者も生存権があるから、自治体が責任もって施設入所を措置する」というものだ。「疲れ切った表情や生気のない瞳」があったにせよ、それは自治体が行うべき手立ての不十分性である。ところが障害者総合支援法のもとでは、「疲れ切った瞳」は「対等で自由な人間どうし」という契約関係の“嘘っぱちとして映る。

最近になり、やまゆり園のかつての園内処遇での問題が表面化している。施設の居室での面会を避けていたのは環境整備に問題があって、見せたくなかったのではないかと考える家族。身体拘束があったこと。外泊時の家族の暴力にきちんと対応したか不明な事例など。このような指摘は重箱の隅をつつくような揚げ足取り的なもので終わってほしくない。それらのいくつかは、障害者総合支援法の契約に基づく福祉という虚構に根差していると思うからだ。

このような問題がおきると、よく言われるのは次のようなことだ。利用者本人の自己決定ができるように職員は不断の努力をしなければならない。虐待防止・権利擁護の徹底。職員研修でのスキルアップ。職員集団で支援計画を作成し、共有し、モニタリングを行う…。しかしこれらはやればやるほど、職員は自分が「対等で自由な」人間とは思えなくなるものだ。

このような改善技術のもろもろの奥に、言い知れぬ「何か」が、洞穴の奥に住む魔物のようにじっとひそんでいる。魔物の体液がしたたり落ち、洞窟の外にしみだしてくる。種々の技法や計画の隙間から、べとべとするものがせっかく立てた技法や対策を少しずつ濡らし、ずらし、気がつくととんでもないことになっている。これではまずいとさらに計画や研修を重ねると、不思議なことによりおかしく、意図からもずれて、どんどん複雑に、奇妙な形になっていく…。そのような魔物がいるのである。

 

西角純志氏は、2001年から2005年までやまゆり園で働き、いまは専修大学の教師である。彼は事件について発言し、被害者家族や元職員との面談を続けている。彼がやまゆり園で働いた時代、やまゆり園は県立の施設であり、彼は非常勤の県職員であった。彼の問題意識は、障害者総合支援法への移行は、民営化(という下請化)、効率化(という非人間化)、労働の合理化(という労働条件の劣化)と捉える。

 

(やまゆり園が2005年民営化し、変わったことといえば)安い業者の方に下請けしてしまって、地元の業者、商店を使わなくなったという点が大きいんですね。例えば、食材や配給などです。地元に「キッチンたかはし」という食堂があって、僕がいた時には、利用者を連れてデザートを食べに行ったり、そんなことがあったわけですが、民営化以降それはなくなりました。
(社会臨床雑誌第25巻第2号、2017年、P27)

このような変化は些細なことだ。障害者総合支援法が要求する計画、研修、虐待防止、スキルアップといったことと関係はほとんどない。しかし実際に働いてみれば、このようなことが「できなくなる」変化はとても大きなことである。地元の業者や近所のお店の人とのふれあいがなくなり、会話がなくなる。地域に開いたものにしていこうとしていたそれまでの職員の行動目標のベクトルが反転する。そして、ベクトルが施設の中に向くとき、職員と障害者の関係も閉じる。その閉じた中心に、「重度の障害者と職員は対等で自由な人間で、自由な契約で結ばれている」というタテマエがハタハタとたなびく。

植松被告は知っているのだろうか? と誰か、このように問いかけたかもしれない。「植松、君が働くわずか7年前、西角氏は週30時間の非常勤職員で30万円近い給料をもらっていたんだよ。職員もそれだけ大事にされていたということだ。地域との交流もだいじな活動で、入所者と『キッチンたかはし』でデザートを食べ、君の通った小学校の運動会にも参加していた。園の組合の機関紙に西角さんは収容施設の問題を仲間といっしょに考えようと書いたりしたんだ。もちろんやる気のない職員もいて、面会に来ない家族もいた。でも、君が言う『生気のない瞳』の原因は本当に障害者のせいだろうか? 君は知り始めるやまゆり園のたった7年前、君の知るやまゆり園と似ているけど、ちょっと別の世界があったんだ。それを君は知っているのか?」(「創」、2016年10月号pp48-51、西角純志氏が書いたかつてのやまゆり園)

公立公営の施設運営を知っている人は、障害者総合支援法への移行を民営化=福祉の切り下げとしてとらえる。しかし問題の大きなところは、それだけではない、「民営化=福祉の切り下げ」と捉えられる現実が、「対等で自由な人間どうしの契約」という観念と同居しているということ。そしてその同居を理解せよと迫られること。そこに問題の黒々としたよどみと深みがある。

契約という「虚構」によって多くの福祉労働者が疲れていると思う。そして重い障害者ほどつらい思いをしている。このことについて考えていきたいと思う。

 

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